工場勤務、係長に昇進したのに年収が100万近く下がる
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「あなたは神や仏の実在を信じていますか?」
家の宗派や好みの寺社を尋ねているのではない。「この宇宙のどこかに神や仏と名指される実体が存在する」と信じているかを訊いているのだ。このとき、あなた自身はどのように答えるだろうか。
実は、この質問は日本の宗教の特徴を考える上で重要な意味を持つ。ここでは無神論者に対するイメージを手がかりに考えてみよう。
国際的には、日本は世界トップクラスの無神論国家とされる。さまざまな調査があるが、だいたい1位は中国で、日本はチェコやスウェーデンと2位争いをしている。ラグビーでいえばティア1から外れることはない。2017年の調査では、日本の無神論者の割合は87%で世界2位だ。1位の中国(91%)とは僅差であり、3位のスウェーデン(78%)、4位のチェコ(76%)に10%前後の差をつけている。
あなたの実感としてはいかがだろうか。中国では国策として宗教が規制されるし、チェコは旧共産圏だ。スウェーデンが含まれる北欧は、キリスト教会の衰退が世界一激しい地域である。日本はこうした国々と同じような宗教状況にあるのだろうか。
実際のところ、初詣となれば、全国で数千万人が正月に寺社を訪れる。葬儀といえば、相変わらず仏式が圧倒的な人気だ。2010年代以降は、パワースポットめぐりとして寺社参拝がより身近になった。お彼岸に墓参りをする人も多いだろう。結婚式の挙式の形態では人前式が神道式を上回るが、最も多いのは教会式(キリスト教式)で全体の6〜7割を占める。ちなみに、日本のキリスト教徒の割合は1%程度で超少数派である。無神論的というより、宗教混淆的といったほうが正確ではないだろうか。
筆者は、現代宗教をとらえるには宗教を信仰・実践・所属の3要素に分解する視点が有効だと考えている。宗教は世界中に無数にある。天理教もカトリックもゾロアスター教も宗教と呼ばれるが、内実は大きく異なる。カーリングもラグビーも同じスポーツに分類されるが、両者が根本的に異なるのと同じだ。スポーツというカテゴリーには、フィジカル重視、芸術性重視、技巧重視などさまざまな競技が含まれる。それと同じように、宗教というカテゴリーにも、信仰重視、実践重視、所属重視のものがある(『宗教と日本人葬式仏教からスピリチュアル文化まで』参照)。
この枠組みからいえば、日本の仏教や神道は圧倒的に実践重視だ。初詣や受験前の参拝客で、祭神に関わる由緒や教学に通じる人はほとんどいない。自分の家が代々曹洞宗寺院の檀家(だんか)だとして、『正法眼蔵』やそのエッセンスをまとめた『修証義』に日常的に親しんでいる人がどれほどいるだろうか。恐らく『修証義』の名前も知らない人が多いはずだ。
これが日本の宗教文化の大きな特徴である。教義や教典のような信仰要素は、一般の信者にとってそれほど重要ではない。信じていなくても初詣や葬儀を実践する。あるいは、信仰と実践がリンクしていないといってもよい。だから結婚式だけは教会でも矛盾を感じない。信仰よりも実践が重視される傾向が強いのだ。つまり、信者(believer)という言葉が、そもそも日本の宗教文化に当てはまりにくいのである。
だからこそ、日本は無神論者率ランキングで最上位グループに入る。こうした調査では「信仰を持っているかどうか」、つまり神仏のような超越的存在の実在を信じ、それをめぐる信念を持っているかどうかを尋ねる。信仰の有無を訊かれれば、多くの日本人は否定するしかない。しかし地獄や浄土の存在を確信していなくても先祖供養は続けるし、幽霊の実在を信じていなくても事故物件は避けるし、なんなら動物の供養もするのである。
したがって、無神論者という言葉は、信仰重視の宗教にふさわしい概念である。神がこの世界に実体を持って存在するか否かを焦点とする言葉だ。キリスト教の言葉といえる。キリスト教には絶対の教典がある。言うまでもなく、聖書だ。キリスト教にもさまざまな宗派があり、相対的に実践重視のグループもある。しかし、聖書なしのキリスト教というのは考えにくい。聖書は神の言葉を記した書物であり、信者が内面化すべき信仰の源泉となる。
キリスト教の神は世界に介入する全能神である。例えば次の2つの文章はアメリカの牧師リック・ウォレンの著書『人生を導く5つの目的自分らしく生きるための42章』(パーパスドリブンジャパン/2015年)からの引用だ。世界で3000万部以上売り上げたというベストセラーである。
すさまじい全能ぶりであり、介入ぶりだ。あなたが事故や不治の病で死ぬのも神の意志である。あなたがどのような性格や外見や運動能力を持っているのかも神が決定する。日本の「お天道様に顔向けできない」「ご先祖様が見守ってくれる」といった漠然とした感覚とは大きく異なる。キリスト教の神は遺伝子まで操作するのだ。当然、実在していなくてはならない。
だからこそ、無神論者という言葉が持つニュアンスも異なる。神仏の実在にこだわらない日本では、無神論者だとカミングアウトしてもほとんど波紋を起こさない。問い詰められればだいたいの人がそうであるし、それをわざわざ言うのは何か特別な事情でもあるのかと勘繰られる程度だ。
しかし、キリスト教の文脈では異なる。無神論者は神の実在を否定する。つまり、この世界の全ては偶然であり、誰かが生まれて死ぬことに意味はなく、倫理道徳は幻想であり、善も悪も相対的なものでしかないと信じているのだと思われる。したがって、無神論者は反社会的であり、ためらいなく殺人や虐待を行う危険人物とみなされるのだ。
もちろん、そんなわけはない。しかし、無神論者に対するまなざしは大変冷たい。アメリカでは、さまざまな宗教の信者と無神論者に対する感情温度が調査されている。感情温度とは、対象への親近感を最も冷たい0度から最も温かい100度までの温度で示したものだ。要するに、温かい気持ちを抱いているか、冷たい気持ちを抱いているかである。
ユダヤ教徒、カトリック教徒、主流派プロテスタント教徒といったマジョリティの宗教信者に対する気持ちは平均して温かく、60度を超える。仏教徒(57度)やヒンドゥー教徒(55度)がそれに続く。一方、無神論者はイスラム教徒と同じ49度で最下位だ。
知人友人にその宗教の信者がいれば、親近感は多少増す。イスラム教徒の場合、知り合いにいれば53度に上昇するが、無神論者の場合、知り合いにいても51度だ。さらに、知り合いがいないと38度まで低下し、単独最下位なのである。
要するに、「無神論者は不道徳で何をしでかすかわからない」という偏見があるのだ。連続殺人や動物虐待といった凶悪犯罪の犯人は直感的に無神論者だと思われてしまう。13カ国を対象とした調査があるが、宗教の影響力が強い国(UAEやインド)、宗教が規制される国(中国など)、宗教離れが進む国(オランダなど)の大半に、こうした偏見があることが分かっている(Gervais, W., Xygalatas, D., McKay, R. et al. “GlobalEvidenceofExtremeIntuitiveMoralPrejudiceagainstAtheists”, Nature Human Behavior, 1, 2017.)。
さらにすごいことに、この調査によれば、自分自身が無神論者である回答者でさえ、無神論者に同様の偏見を抱いているという。神を否定し、聖書のような倫理道徳の指針を持たない無神論者は何をしでかすかわからない――そうした負のイメージは根強く広がっているのである。
信仰を重視しない日本の宗教文化では「無神論者」はそこまで強い意味を持たないし、実際、日常的に使う言葉ではない。一方、キリスト教の文脈でも滅多に使われる言葉ではないが、それはあまりに否定的なイメージが強いからだ。無神論者は善悪の観念や共感能力を持たないサイコパスのように想像される。
しかし、こうした状況を変えようとする動きもある。「無神論者にも倫理道徳はあるし、なんなら宗教信者よりもはるかにまともだ。無神論者こそが賢く、世界を正しく認識している」。そう主張し始めたのが、新無神論者と呼ばれる人々だ。そのリーダーがリチャード・ドーキンス(1941年〜)である。オックスフォード大学で長年教鞭をとった進化生物学者だ。彼の著書『神は妄想である宗教との決別』(早川書房/2007年)は世界的ベストセラーになった。
内容はタイトル通りである。神など古代人の妄想であり、現代人は宗教を捨てるべきだとドーキンスは主張する。
彼に言わせれば、キリスト教の神も、サンタクロースやユニコーンや妖精と同じく、とても実在するようには思われない。全能の神がこの世界の全てを司る。そんな途方もない主張をしたいなら、途方もないエビデンスを出せ。証明する責任は信じる者にある。証拠がないなら、神が実在するかのように話すのはやめるべきだし、神の言葉を記した聖書も人間が作った古文書だと認めるべきだというのである。
ドーキンスにすれば、そもそも「無神論者」という言葉が気に食わない。まともな大人であれば、サンタクロースもユニコーンも妖精も実在するとは思わない。だが、そうした人々をいちいち無サンタクロース論者、無ユニコーン論者、無妖精論者とは言わない。なぜ神についてだけ、無神論者という言葉があるのか。この言葉が、そもそも神の実在を前提にしているというのである。
さらにドーキンスたちが批判するのが、本当は神を信じていないのに信じているかのように振る舞う人々だ。自分自身は神の存在を感じられない。だが、信仰を持つのは良いことであると信じ、神の実在を確信する人を尊敬する人々のことを、新無神論者のひとりである科学哲学者ダニエル・デネットは「信仰の信仰者」と呼ぶ(『解明される宗教進化論的アプローチ』青土社/2010年)。彼らこそが実は宗教信者のマジョリティであり、彼らが「宗教は尊く、無神論者は危ない」というイメージを守ってきたというのである。
日本では、そもそも神の実在をめぐる論争が成立しにくい。「スサノオや阿弥陀が実在するエビデンスを出せ」と言っても、あまり反響はないだろう。「般若心経は非科学的だから読むのをやめるべきだ」と言っても「非科学的なのは当然だ」と受け流される(むしろ「般若心経と量子力学は同じ真理を語っていた」と言ったほうがインパクトがあるはずだ)。信仰を中心とした宗教文化とそうでない文化では、無神論者が持つ意味も大きく異なるのである。
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